本木新道の歴史

当店が面する「本木新道」はところどころ曲りながら個人商店が続いていく、昔ながら足立の面影を残す生活道路です。

 

北端の環状7号線の西新井大師交差点から、南端の荒川沿いの首都高中央環状線高架下の本木一丁目交差点を結ぶ、2キロ余りの2車線の道路です。

 

短い道路ですが、足立区有数の古道です。植木ミシン店の成り立ちもこの本木新道と密接な関わりがあります。

 

本木新道の起源についてははっきりしたことがわかりません。

 

中世の足立は「渕江郷」(ふちえのごう)とよばれ、その中心は現在の本木地区でした。江戸時代以降宿場として栄える千住はまだ未開発地区でした。室町時代、房総半島での千葉氏一族内の争いに敗れた千葉自胤(これたね)が本木に入部し、千葉氏によって現在の中曽根神社の所在地を中心地にした「渕江城」(中曽根城、千葉城)が造成されました。

 

 

足立区が推定した渕江城の城域。外堀の西側が現在の本木新道と一致する。(「足立風土記稿 地区編2 西新井編」より)
足立区が推定した渕江城の城域。外堀の西側が現在の本木新道と一致する。(「足立風土記稿 地区編2 西新井編」より)

1990年代の発掘調査により、この渕江城の外堀は河川の流水を利用して形成されていたことが確認されています。本木新道が本木掘と呼ばれる水路とともに形成されたことと一致するため、調査した足立区は外堀の西側の境界を現本木新道沿いと推測しています。今の本木新道の起源はこの渕江城とも関わりがあるようです。
 
また、江戸時代以前から「中沼道」と呼ばれていた記述が古文書(「瀬田藤右衛門文書」)にあります。
 
弘法大師が平安時代に建立した足立随一の古刹西新井大師( 總持寺)には、古来から四方に参道が伸びていました。江戸時代にはその各参道は「大師道」とよばれ、現本木新道も西新井大師と宿場町千住を結んでいたため、大師道の一つとして知られていました。
 
途中の西新井、興野、本木各村は典型的な農村地帯でした。この3村は幕府の直轄地であり、武士の鷹狩りの場として整備されていました。鷹狩りのために将軍がこの大師道を通って行きました。特に8代将軍吉宗は鷹狩りを好み、この大師道を通り西新井大師を御膳所(おぜんどころ)として何回か滞在しています。
 
この3村の土壌は粘土質で耕作地として地力が弱いところでした。そのため、農家たちは生活のために副業を手掛けていました。その一つが紙漉き業であり、主に生産されていたのは和紙をリサイクルした漉返紙(すきがえしがみ)でした。
 
こののどかな大師道が変わりはじめたのは1890年の東京府直轄の道路幅拡張工事でした。この際に、本木地区の南側で道路のルート変更が行われました。当時は大師道、または「鳩ヶ谷道」という別称でも呼ばれていましたが、これを機に現名の本木新道の名が定着しはじめます。
 
同時に江戸時代から皮加工業の本場だった浅草から隅田川沿いに皮加工の産業が拡大しはじめました。1907年に千住に「日本皮革」(靴の「リーガル」の母体)が設立され、1915年本木新道沿いに「スタンダード靴」が創業しました。この2社は長年日本の皮靴のリーディングメーカーとして君臨することになり ます。
 
1923年の関東大震災で浅草周辺が甚大な被害を受けたことにより、多くの職人が各地に散ることになりました。本木新道沿いは紙漉き業の副業が発達し、家内制手工業者を受け入れる素地があったため、多数の職人が沿道に移住してきました。
 
やや前後しますが、1922年に本木新道に大きな転機が訪れます。本木新道を縦断するバス路線が宝華園バスによって開設されたのです。本木新道沿道と交通の要所北千住を結ぶ、住民にはなくてはならい路線となっていきます。現在の沿道住民は本木新道を「バス通り」と呼ぶことが多いのですが、バスの存在感がいかに大きいかわかるものです。

本木新道の象徴でもある東武の路線バス
本木新道の象徴でもある東武の路線バス

宝華園バスは戦時統合により東武鉄道に吸収されます。この路線の伝統は現在の東武バスセントラルの「北01」に至るまで脈々と受け継がれ、今でも本木新道の細長くまがった道に大型の路線バスが10分間隔で走っています。

 

こうして、本木新道沿いは農村から加工生産地として職人たちが住む下町に徐々に移り変わっていきました。

 

第二次世界大戦を経て、本木新道は復興期を迎えます。ミシン店に奉公していた当店創業者である先代が現在地に「植木ミシン店」を開業したのは1948年でした。

 

この頃、本木新道は、西側に沿って流れていた用水路である本木堀の暗渠化がはじまりました。常に水路とともにあった古き農道の面影は消え、人々やバスが行きかう生活道路に変貌していきます。

 

当時路地裏を歩くとそこかしこの家の中からミシンの縫い音がよく聞こえてきました。家内制手工業で靴、サンダル、カバンなどをつくる職人が多かったのです。当店はそのような職人を主なお客様として成長していきました。

 

昭和の高度成長に乗りミシンは「一家に一台」の時代を迎えます。しかし、その時にはもう産業としての皮加工業は斜陽化がはじまっていました。1970年代には繊維とともに皮加工品の生産もアジア他国に移行しはじめていたのです。

 

本木新道のもう一つ象徴であったスタンダード靴は、昭和初期に製靴工業科を持つ企業内高校「スタンダード高等学校」を開設したり、イギリスのブランド「DAKS」のライセンス製造を手掛けるなど経営は意欲的でしたが、徐々に業績が悪化していきます。

 

1980年代から本木新道沿いの生産を担っていた家内制手工業の職人や町工場がぽつりぽつりと店じまいをはじめました。そしてついに1990年代後半スタンダード靴が倒産します。

 

スタンダード靴の跡地は東京都や足立区などに売却され、その後公共施設・学校・住宅地として再開発され、往年の面影は残っていません。2000年代まで残っていた「スタンダード前」のバス停の名称は「興本センター」へ改称されました。しかし、スタンダード靴の血統が完全になくなったわけではなく、経営合理化により倒産した子会社の「パラマウント製靴」の従業員が自主的に操業を開始した会社が「パラマウント・ワーカーズ・コープ」として現在も存続しています。

 

再開発後の跡地にはスタンダード靴の面影は全くと言っていいほど残っていない。
再開発後の跡地にはスタンダード靴の面影は全くと言っていいほど残っていない。

現在、沿道に残る皮加工の事業所としては「レナート」ブランドの紳士靴を生産している「ナガセ」が奮闘しています。ブランドのOEM製造で頑張っている工場や職人もいます。

 

本木新道沿いは職人たちが住む下町から、北千住駅と西新井駅そして日暮里・舎人ライナーにつながる住宅地として開発が進んでいます。

 

長年地域に根付いた沿道の商店は味わい深い店が多いです。沿道には興野バス通り商店街と興野銀座会、本木中央通り商店街などの商店会があります。

興野神社のイチョウ
興野神社のイチョウ

さらに南側に歩くと、道路の西側に木が生い茂っている一角が見えます。一見わかりにくいのですが、これは興野村の総鎮守「興野神社」です。高くそびえる2本の大イチョウが、昔ここ一帯が農村地帯であったことの面影を伝えています。

 

当店にお越しいただいた際、帰り道は沿道を散歩してみてはいかがでしょうか?

 

参考文献:足立区立郷土博物館編「ブックレット 足立風土記2 西新井」「足立風土記稿 地区編2 西新井」(ともに足立区教育委員会発行)/足立史談会著「足立区の歴史」(名著出版)

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